はじめに
GDPの統計に表れる経済活動の裏側に、もうひとつの経済があります。 政府の統計には現れず、税金もきちんと把握されない経済──。
それを、社会学・経済社会学のことばでシャドーエコノミー(shadow economy)と呼びます。 日本語では「影の経済」「非公式経済」「地下経済」と訳されることもあります。
1. シャドーエコノミーとは何か
シャドーエコノミーは、ひとことでいえば、
政府が発表する経済統計には現れない経済活動。
を指します(吉岡のノートより)。
「非公式経済」(Informal Economy)とも呼ばれます。 定義はさまざまありますが、おおむね次のふたつの領域を含みます。
ひとつ目は、違法なビジネスの経済活動。 麻薬取引、密輸、ヤミ金融、賄賂、脱税、人身売買──。 これらは、社会のルールから外れたところで動いている経済です。
ふたつ目は、政府が実体を把握できない、合法的な経済活動。 これが、社会学的にはより興味深い領域です。 違法ではないけれど、統計の網からこぼれている経済活動です。
2. 把握されない合法的な経済活動
合法的でありながら、シャドーエコノミーに含まれる活動には、たとえば次のようなものがあります。
- 個人間の物々交換、シェアリングエコノミーの一部
- フリマアプリやネットオークションでの売買
- 家事労働、育児、介護などのケア労働
- 近所での助け合い、お互いさまの関係
- 同居家族内での労働の分担
- 自家消費のための農業・漁業
- ボランティア活動
これらは、お金が動かなかったり、動いても税務当局が把握しにくかったりするために、GDPなどの公式な経済統計には反映されません。
ですが、社会のなかで人々の生活を支えている、極めて重要な活動です。 これらをまるごと「経済ではない」として無視するのは、社会の実態を見誤ることになる。
3. なぜシャドーエコノミーが問題になるのか
シャドーエコノミーが社会学の関心を引くのは、いくつかの理由があります。
ひとつ目は、統計の限界の問題。 GDPや経済成長率などの公式統計は、シャドーエコノミーを含んでいない。 だから、ある国の本当の経済規模や、人々の生活水準を測るには、シャドーエコノミーも考慮する必要があります。
ふたつ目は、税収と再分配の問題。 脱税や違法な経済活動は、税収を減らし、社会保障や公共サービスの財源を細らせます。 シャドーエコノミーの規模が大きい国では、福祉国家を維持するのが難しくなる。
三つ目は、労働者保護の問題。 非公式経済で働く人々(不法就労者、無申告のフリーランス、家事労働者など)は、社会保険にも労働法にも保護されないことが多い。 低賃金、長時間労働、危険な労働環境などの問題が、シャドーエコノミーに集中します。
四つ目は、ジェンダーの問題。 ケア労働や家事労働は、しばしば女性が無償で担ってきました。 これらは経済統計に出てこないので、女性の貢献が社会的に見えなくされてきた側面があります。 フェミニズム経済学は、シャドーエコノミーの議論を、ジェンダーの視点で深めてきました。
4. ケア労働の「見えなさ」
シャドーエコノミーの議論で、特に大事なテーマのひとつが、ケア労働の見えなさです。
家事、育児、介護、看病、感情的なサポート──。 これらは、社会のもっとも基本的な部分を支えている活動です。 ですが、お金を介さずに行われることが多く、経済統計には現れません。
その結果、
- ケアを担う人(しばしば女性)の貢献が、社会的に評価されない
- ケアのために仕事を辞めると、年金や社会保障の権利が大きく減る
- ケア労働は「当たり前のもの」とされ、政策の対象になりにくい
──といった問題が生まれてきました。
ケアの倫理(→ #78)や、新しい社会的リスク(→ #56)の議論も、このケア労働の見えなさを、社会のなかで可視化していこうとする試みです。
5. 開発途上国のシャドーエコノミー
シャドーエコノミーの規模は、国によって大きく違います。 特に、開発途上国では、シャドーエコノミーがGDPの相当な割合を占めることがあります。
- 行商、屋台、街角の修理屋などのインフォーマルセクター
- 親族や地縁ネットワークを通じた、お金を介さない助け合い
- 自家消費の農業・漁業
これらは、開発途上国の人々の生活を底から支えている経済活動です。 ですが、公式統計に表れないため、政策の対象としにくく、社会保障の手も届きにくい。 国際労働機関(ILO)などが、このインフォーマルセクターの実態調査と保護策に取り組んでいます。
6. デジタル時代のシャドーエコノミー
近年、デジタル化の進展とともに、新しい形のシャドーエコノミーも生まれています。
- 仮想通貨での取引
- ダークウェブでの闇取引
- 個人間のシェアリングエコノミー
- クラウドソーシングの低賃金労働
- SNS上の投げ銭、Patreon、Substackなどの新しい収入源
- 中古品売買アプリの個人取引
これらは、政府が把握しきれない速度で広がっています。 税制と社会保障の仕組みが、これらに追いついていないのが現状です。
7. インタビュー研究と、シャドーエコノミー
TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、シャドーエコノミー的な活動は、しばしば登場します。
- 「家族の介護を、ずっと自分が担ってきた」(無償ケア労働)
- 「フリマアプリで家計の足しにしている」(把握されにくい収入)
- 「近所での野菜のおすそ分けが、暮らしを助けてくれている」(非貨幣的な経済)
- 「フリーランスの仕事の一部は、税申告していない」
これらの語りは、人々の生活が公式の経済の外側にも、確実に存在することを教えてくれます。 シャドーエコノミーの補助線を持っていると、こうした経験を「個人の都合」ではなく、社会の構造的な現象として読み解くことができます。
結び
シャドーエコノミーは、社会の経済の半分(あるいはそれ以上)を、見えなくしてきた領域です。
「経済」とは、GDPの統計に表れるものだけではありません。 家族の中での労働、近所のお互いさま、ケアと感情の交換、シェアリング──。 これらすべてを含めて、私たちの暮らしは成り立っています。
「見えない経済」を社会学のことばで可視化すること。 これは、社会の構造を正確に理解するための、ひとつの大切な作業です。
参考資料
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「シャドーエコノミー」
- 関連:埋め込み(#81)、新しい社会的リスク(#56)、正義の倫理とケアの倫理(#78)
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】