はじめに

「ルールに従うのが正しい」 「目の前で苦しんでいる人を、ほうっておけない」

このふたつは、どちらも倫理的な判断ですが、その性質は違います。 普遍的な原則から判断するのか、それとも、目の前の関係や状況から判断するのか。

20世紀後半のアメリカで、このふたつのありかたを「もうひとつの声」として描いたのが、心理学者キャロル・ギリガン(Carol Gilligan)でした。 今回取り上げるのは、彼女が1982年に提示した正義の倫理ケアの倫理の対比です。

1. 正義の倫理とは何か

正義の倫理は、ひとことでいえば、

自立した責任ある個人を前提とし、その個人が、統一的で普遍的な基準を持って判断を行う考え方。

を指します(吉岡のノートより)。

ルール、法律、原則、契約──。 これらに従うことを倫理の中心に据える考え方です。 「誰に対しても同じ基準を当てはめる」「個人の権利を尊重する」「公正であること」──これらが、正義の倫理の核心になります。

ロールズの正義論(→ #41)に代表されるリベラリズム、そして近代の法と契約に基づく道徳哲学は、おおむねこの正義の倫理を前提にしてきました。

2. ケアの倫理とは何か

これに対して、ケアの倫理は、

自立した責任ある個人のみならず、社会的弱者なども主体となることを前提に、統一的な基準ではなく、道徳的価値観を優先して判断を行う考え方。

を指します。

目の前で苦しんでいる人。傷つきやすい子ども、病人、高齢者。 そうした他者との関係のなかで、何が必要かを感じとり、応えていく。 これがケアの倫理です。

抽象的な原則よりも、具体的な関係を重視する。 誰にも同じルールを当てはめるのではなく、目の前の人の状況に応えていく。 このアプローチが、ケアの倫理の核心です。

3. ギリガンの問題提起

ギリガンは、1982年の著作『もうひとつの声』(In a Different Voice)で、この対比を提示しました。

きっかけになったのは、彼女の師であった発達心理学者ローレンス・コールバーグの道徳発達理論への違和感でした。 コールバーグは、子どもの道徳的判断の発達段階を整理する研究をしていましたが、その「最高段階」は、抽象的・普遍的な原則に基づく判断とされていました。 そして、その最高段階に達するのは、しばしば男性のほうが多い、とされていました。

ギリガンは、ここに疑問を持ちました。 「女性の道徳的判断が劣っている」のではなく、「女性は、男性とは違う声で道徳を語っている」のではないか──。

彼女は、女性へのインタビューを通じて、「人々の関係性を保つこと」「具体的な状況に応えること」を重視する別の道徳的視座を発見します。 これを彼女は、ケアの倫理と呼びました。

そして、教育や社会的役割によって、男性は正義の倫理を、女性はケアの倫理を採用することを論じました。 これは後天的に作られる、ジェンダーの差異だと。

4. フェミニズムからの議論

ギリガンの議論は、フェミニズムのなかで、両論ありました。

批判: ケアの倫理を女性のジェンダーと結びつけることは、「良き母」というステレオタイプ的な女性像を助長してしまう。 女性に「ケアを担うべき」という役割を固定化してしまうリスクがある。

支持: これまでの道徳哲学が、ケアの倫理を軽視し、正義の倫理ばかりを評価してきた。 ケアの倫理を社会的に再評価するという意味で、ギリガンの仕事は重要だ。

このふたつの議論を経て、ケアの倫理は、ジェンダー本質主義に陥らない形で、社会の中で軽視されてきた倫理を取り戻す運動として、発展していくことになります。

5. ジョアン・トロントの4要素

ケアの倫理を、より精緻に整理したのが、アメリカの政治学者ジョアン・トロント(Joan Tronto)です。 彼女は、ケアの倫理の4つの要素を挙げました。

ひとつ目は、注意深さ(Attentiveness)。 他者のニーズを認識し、それに応えること。 無関心と注意深さの欠如をどう区別するかが、ここの問題になります。

ふたつ目は、責任性(Responsibility)。 ケアするために、自分のこととして引き受ける責任。 法的な「責務」(obligation)とは違って、より曖昧で柔らかい「責任」のかたちです。

三つ目は、適性(Competence)。 ケアを提供するには、適当な能力をもつことも重要。 ニーズを認識して、責任を受け入れるだけではなく、実際にケアをやり遂げる力が必要。

四つ目は、応答性(Responsiveness)。 ケアを受ける人に対する応答性。 ケアは、傷つきやすさと不平等といった条件に関わっているので、相手の表現・表出から状況を理解する能力が求められる。

これら4つを組み合わせて、ケアの倫理は実践される、というのがトロントの整理です。

6. なぜ「ケア」は軽視されてきたか

トロントは、ケアの倫理が道徳哲学のなかで軽視されてきた理由として、

ケアが「当たり前であること」とされている

ことを挙げました。

「当たり前であること」とは、社会的・文化的に構築されたジェンダー役割のこと。 ケアが女性の仕事であると考えられてしまっていることを意味します。

家のなかで、女性が育児や介護を担うのが「当たり前」。 そう考えられているうちは、その営みは「価値ある仕事」として認識されにくい。 道徳哲学の対象としても、軽視されてしまう。

ケアの倫理を再評価するということは、「ケアは当たり前ではない、社会的に大事な営みだ」と位置づけ直すことでもあります。

7. インタビュー研究と、ケアの倫理

TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、ケアの倫理は、しばしば登場します。

これらの語りは、抽象的な原則ではなく、目の前の関係への応答として、人々が日々倫理的な判断をしていることを教えてくれます。

ケアの倫理の補助線を持っていると、こうした語りを「個人の自己犠牲」ではなく、社会のなかで軽視されてきた、もうひとつの倫理の営みとして読み直すことができます。

結び

正義の倫理とケアの倫理は、対立するものではなく、補完しあうべきふたつの倫理のかたちです。

ルールや原則に基づく公正さも大切。 目の前の関係に応える具体的な応答性も大切。 このふたつを行き来できる社会こそが、健全な社会だと、ギリガンの議論は教えてくれます。

「ケアは当たり前」と思考停止しないこと。 それは、ケアを担ってきた人々への敬意であり、私たち全員にとっての倫理の再発見でもあります。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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