はじめに
20世紀の福祉国家は、ある明確なリスクに対応するために作られました。 それは、男性稼ぎ主の安定した雇用が失われるリスクです。 失業保険、年金、医療保険──これらの制度の多くは、「夫が働き、妻が家事と育児を担う家族」を前提に設計されていました。
ところが、21世紀に入って、この前提はあちこちで崩れています。 非正規雇用の拡大、共働き世帯の増加、シングルマザーやヤングケアラー、長寿化に伴う介護負担──。 20世紀の福祉制度では対応しきれない、新しい困難が次々に立ち上がっています。
この変化を捉えることばが、今回取り上げる新しい社会的リスク(new social risk)です。
1. 新しい社会的リスクとは何か
新しい社会的リスクは、ひとことでいえば、
非正規雇用と共稼ぎ家族を前提とした21世紀の脱工業化社会にあらわれる、個々人の所得の喪失とケアの危機というリスク。
を指します(吉岡のノートより)。
具体的には、
- 学校卒業後に、安定した仕事に就けないこと
- 不安定な非正規職を転々として、キャリア形成ができないこと
- ひとり親であること
- 育児や介護など、ケアを必要とする家族を抱えること
──こうした状況に直面することを指します。
イギリスの社会政策研究者ピーター・テイラー=グッピー(Peter Taylor-Gooby)らによって1990年代以降に体系化された概念で、1970年代の石油危機以降から、徐々に顕在化してきました。
2. 「古い社会的リスク」との違い
新しいリスクがあるからには、「古い社会的リスク」もあります。 ここを区別することで、新しいリスクの輪郭がはっきりします。
古い社会的リスクは、20世紀の工業化社会における、
- 男性稼ぎ主の所得喪失(失業、病気、退職、死亡)
──を指します。 ここに対応するのが、伝統的な福祉国家の三本柱でした。
- 失業保険:失業時の所得を補う
- 健康保険:病気時の医療費・所得を補う
- 年金:老後の所得を補う
これらは、いずれも「男性稼ぎ主の所得」を前提に設計されています。 家族のなかでケアを担う女性、子ども、高齢者は、男性稼ぎ主を介して間接的に保障される設計です。
3. なぜ「新しい」リスクが生まれたのか
新しい社会的リスクが浮上してきた背景には、社会経済の構造的な変化があります。
ひとつ目は、脱工業化。 製造業中心から、サービス業・情報産業中心へ。 男性稼ぎ主の安定した正規雇用は減少し、非正規雇用が拡大しました。
ふたつ目は、女性の就労拡大。 共働き世帯が標準化するなかで、家のなかで誰がケアを担うかが問題になります。 育児・介護といったケア労働が、社会的な課題として浮上しました。
三つ目は、人口構造の変化。 長寿化により、介護を要する高齢者が増えました。 同時に、少子化により、家族内のケアの担い手は減っています。
四つ目は、個人化。 結婚しない人、離婚する人、ひとり親世帯が増えました。 家族による相互扶助だけでは、生活を支えきれない人が増えています。
これらの変化が重なって、20世紀型の福祉国家が想定していなかったリスクが浮上してきました。
4. 「人生後半」から「人生前半」へ
注目すべきは、新しい社会的リスクは、しばしば人生の前半で発生することです。
古い社会的リスクは、人生後半(退職、病気、老齢)に集中していました。 だから、長く働いて積み立てた年金や、現役世代が支える社会保険で対応できました。
新しい社会的リスクは、
- 若年失業(学校を出てすぐ)
- 非正規雇用での不安定なキャリア
- ひとり親の困難
- 育児・介護による離職
──というふうに、人生前半でも、繰り返し発生します。 これは、「積み立て式の社会保険」では対応しきれません。 若い頃に積み立てがない人、頻繁に状態が変わる人にこそ、支援が必要になるからです。
そして、雇用可能性が大事になります。 年金で給付するだけではなく、人がいつでも働ける状態を維持できるようにする支援が必要だ、というわけです。
5. 「社会的投資」という応答
新しい社会的リスクに対応する政策の方向性が、近年の福祉国家論で議論されている社会的投資(social investment)です。
社会的投資は、
- 子ども・若者への教育投資(人的資本の形成)
- 就労支援、職業訓練、再教育
- 育児支援、保育サービス
- 高齢者の介護を社会化するサービス
- ジェンダー平等の促進
──といった、事前に人へ投資する形の社会政策です。
「困ったあとに給付する」のではなく、「困らないように支援する」「困っても立ち直れるように支える」発想。 従来の社会保障とは、設計思想が大きく違います。
東アジアの国々は、この社会的投資型の改革に乗り遅れた、と指摘されることがあります。 個人化が進んだのに、それに対応する社会保障制度をうまく作れなかった。 その結果、ウルトラ少子化が進んでいる、という分析もあります。
6. ボーモルのコスト病という背景
新しい社会的リスクの議論には、しばしばボーモルのコスト病(Baumol's cost disease)が背景として挙げられます。
経済学者ボーモルとボーエンは、ベートーヴェンの弦楽四重奏を演奏するのに必要な音楽家の数は、1800年と現在とで変わっていないことを指摘しました。 つまり、クラシック音楽の演奏の生産性は上昇していない。 看護師が包帯を交換する時間も、大学教授が学生の文章を添削する時間も、自動車製造のような工業部門と違って、効率化が難しい。
ところが、社会全体の賃金水準は上がっていくので、こうした労働集約的な分野では、生産性は変わらないのに人件費だけ上がる。 公立病院・公立大学のような公共サービスのコストは、構造的に上がり続けます。
新しい社会的リスクへの対応は、その多くがケア労働を含みます。 ボーモルのコスト病を踏まえると、これらのサービスを社会全体で支えていく仕組みを、慎重に設計する必要があります。
7. インタビュー研究と、新しい社会的リスク
TNN がインタビューを通して聴く語りのなかにも、新しい社会的リスクは、しばしば語られます。
- 「氷河期世代で、いまも非正規を転々としている」
- 「子育てで離職して、復帰の道がなかった」
- 「親の介護で仕事を辞めることになって、生活が一変した」
- 「ヤングケアラーだったから、自分のキャリアを考える余裕がなかった」
これらの語りは、たんなる「個人の不運」ではなく、社会経済構造の変化に追いついていない制度設計の問題でもあります。 新しい社会的リスクの補助線を持っていると、こうした語りを社会の制度の問題として読みほぐすことができます。
結び
20世紀の福祉国家は、男性稼ぎ主の家族モデルのもとで、人生後半のリスクに対応するために作られました。 ですが、21世紀の私たちが直面しているリスクは、それとはずいぶん異なります。
新しいリスクへの応答として「社会的投資」が議論されています。 これは政治の問題であると同時に、私たちの生活の手触りに直結する問題でもあります。
家族で抱え込まず、社会で支える──。 このシンプルな方向に、どこまで制度を動かせるかが、これからの福祉国家の試金石です。
参考資料
- ピーター・テイラー=グッピー他『The New Social Risks』
- 濵田・金「新しい社会的リスク」研究
- ボーモル『Baumol's cost disease』
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「新しい社会的リスク」
- 関連:脱商品化(#47)、普遍主義と選別主義(#20)
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】