はじめに

ふたりとも協力すれば、ふたりとも得をする。 ですが、相手が裏切るのが怖くて、自分も裏切ってしまう。 結果として、ふたりとも損をする──。

この、人間社会のあちこちで起きている奇妙だが厳密な構造を、ゲーム理論のことばで囚人のジレンマ(prisoner's dilemma)と呼びます。 社会学、経済学、政治学、心理学、生物学──あらゆる分野で参照される、20世紀の最大級の理論的発見のひとつです。

1. 囚人のジレンマとは何か

囚人のジレンマは、ひとことでいえば、

ゲーム理論におけるゲームの1つ。お互い協力する方が、協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では、互いに協力しなくなる、というジレンマ。

を指します(吉岡のノートより)。

1950年に、アメリカの数学者アルバート・タッカー(Albert W. Tucker)が、この問題を「囚人のジレンマ」という名前で定式化しました。 それ以来、ゲーム理論の中心的な題材として、世界中で研究されています。

2. 「囚人」のシナリオ

「囚人のジレンマ」という名前の由来は、次のような思考実験です。

ふたりの容疑者A、Bが、共犯として逮捕された。 警察は、別々に取り調べを行う。 ふたりは、お互いの選択を知らない。

選択肢は、それぞれ「自白する」か「黙秘する」かの2つ。

ふたりの容疑者は、それぞれどう選ぶでしょうか。

合理的に考えると、

つまり、相手が何を選んでも、自分は自白したほうが得になる。 だから、AもBも自白を選ぶ。 結果として、ふたりとも中程度の刑(5年)を受けることになります。

ところが、もしふたりとも黙秘していたら、ふたりとも軽い刑(1年)で済んだはず。 個々が合理的に行動した結果、全体としては悪い結果になる──。 これが、囚人のジレンマの本質です。

3. ナッシュ均衡とパレート最適

囚人のジレンマは、ゲーム理論の重要な概念を理解する上で、決定的な役割を果たします。

ナッシュ均衡(Nash equilibrium): 各プレイヤーが、相手の選択を所与として、自分にとって最適な選択をしている状態。 誰も、ひとりだけで戦略を変える動機を持たない状態。

囚人のジレンマでは、「両方が自白する」がナッシュ均衡です。 相手が自白するなら、自分も自白したほうがよい。逆もしかり。

パレート最適(Pareto optimum): 他のプレイヤーの効用を下げずに、誰かの効用を上げることができない状態。 社会全体の効用が最大化されている状態のひとつ。

囚人のジレンマでは、「両方が黙秘する」がパレート最適です。 両方が黙秘すれば、両方とも得をする。

ところが、ナッシュ均衡(両方自白)とパレート最適(両方黙秘)が一致しない。 個人の合理的な選択(ナッシュ均衡)が、社会全体の最適(パレート最適)にならない事象が生まれる──。 これが、囚人のジレンマが提示する重大な問題です。

4. 社会の至るところにある「囚人のジレンマ」

囚人のジレンマは、刑事司法の話に閉じません。 私たちの生活のあちこちに、同じ構造があります。

これらはすべて、囚人のジレンマと同じ構造を持っています。 だから、囚人のジレンマは、極めて汎用性の高い分析道具として、社会のさまざまな問題に応用されてきました。

5. 「繰り返し」の囚人のジレンマ

1回だけの囚人のジレンマでは、両者の協力は難しい。 ですが、同じプレイヤーが繰り返しゲームを行う場合は、状況が変わります。

──といった戦略を、ロバート・アクセルロッド(Robert Axelrod)が1980年代に研究で示しました。 繰り返しのゲームでは、協力が安定的な戦略になりうる、という発見は、社会学・進化生物学に大きな影響を与えました。

これは、人間社会のなかで「信頼」「互酬性」「評判」がなぜ大事なのか、を理論的に説明する基盤になりました。

6. 共有地の悲劇との関係

囚人のジレンマと共有地の悲劇(→ #126)は、密接に関係しています。

両者は、同じ「個人の合理性 vs 全体の合理性」の問題を、異なるスケールで扱っています。

そして、社会的ジレンマ(→ #35)は、これらの一般化された形です。 ホッブズ問題(→ #19)も、同じ問題の哲学的定式化と言えます。

7. 囚人のジレンマからの脱出

囚人のジレンマからどう抜け出すか? 社会のなかでは、いくつかのアプローチが取られてきました。

ひとつ目:コミュニケーション。 ふたりの容疑者が事前に話し合いができれば、両方が黙秘する協力解にたどり着ける。

ふたつ目:制度・罰則。 裏切りには罰則を、協力には報酬を、と外側からインセンティブを設計する。

三つ目:信頼と評判。 繰り返しのゲームのなかで、信頼の関係を作っていく。

四つ目:規範と道徳。 「裏切ることはよくない」という道徳的規範を内面化する。

五つ目:第三者の介入。 強い権威(国家、警察、調停者)が、両者に協力を強制する。

これらの組み合わせで、現実の社会は囚人のジレンマを乗り越えてきました。 完全に解消はできませんが、ある程度の協力を維持できる仕組みを、私たちは作ってきたのです。

8. インタビュー研究と、囚人のジレンマ

TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、囚人のジレンマ的な状況は、しばしば登場します。

これらの語りは、囚人のジレンマの構造が、個人の心理社会の構造の交差点で動いていることを教えてくれます。 囚人のジレンマの補助線を持っていると、こうした語りを、たんなる「臆病さ」や「不信感」ではなく、合理的な選択がはまり込む構造として読みほぐすことができます。

結び

囚人のジレンマは、ゲーム理論の有名な問題ですが、それ以上に、人間社会の根本的な矛盾を映し出すレンズでもあります。

みんなで協力すればうまくいくのに、誰も先に動けない」──。 この風景は、軍備、価格、環境、組織、人間関係、家庭──あらゆる場面で起きています。

その構造を理解し、繰り返しと信頼と制度の力で、少しずつ協力解に近づいていく──。 これが、社会のしくみを考え直すための、ひとつの基本作法です。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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