はじめに
非正規雇用、フリーター、派遣社員、契約社員、フリーランス、ギグワーカー──。 20世紀後半までの「正社員モデル」では捉えきれない働き方が、いまや日本でも世界でも、当たり前になっています。
この「不安定な働き方を強いられる人々」の総体を、社会学・労働社会学のことばでプレカリアート(precariat)と呼びます。 新自由主義の時代に登場した、新しい階層概念です。
1. プレカリアートとは何か
プレカリアートは、ひとことでいえば、
1990年代以後、急増した、不安定な雇用・労働状況における、非正規雇用者および失業者の総体。
を指します(吉岡のノートより)。
語源は、
- precarious(不安定な、危うい)
- proletariat(プロレタリアート=労働者階級)
──を組み合わせた造語です。 プロレタリアートと語呂を合わせることで、新自由主義における新貧困層の現実との向き合い方を示しています。
2. プレカリアートが含む人々
プレカリアートには、
- 国籍・年齢・婚姻関係に制限されることなく
- パートタイマー
- アルバイト
- フリーター
- 派遣労働者
- 契約社員
- 周辺的正社員
- 委託労働者
- 移住労働者
- 失業者
- ニート
──など、幅広い人々が包括されます。 広義では、貧困を強いられる零細自営業者や農業従事者を含めることもあります。
3. なぜ「新しい階層」なのか
「プロレタリアート」(伝統的な労働者階級)と「プレカリアート」を、わざわざ区別する意味はどこにあるでしょうか。
伝統的なプロレタリアートは、
- 工場や現場で長期にわたって働く
- 労働組合に組織されている
- 賃上げや権利の交渉ができる
- 退職金、年金、雇用保険などの安全網がある
──という、20世紀型の労働者像でした。
ところが、プレカリアートは、
- 雇用が短期的で、いつ切られるか分からない
- 労働組合に入っていない、あるいは入れない
- 賃金交渉の場がない
- 社会保障の対象から外れがち(厚生年金、雇用保険、健康保険のカバーが弱い)
──という、まったく違う構造にあります。 プロレタリアートが闘い取ってきた労働者の権利から、プレカリアートは構造的に排除されている。 これが、新しい階層として区別する理由です。
4. 1990年代以降の新自由主義との関係
プレカリアートが急増した背景には、1990年代以降の新自由主義とグローバリズムがあります。
- 規制緩和による派遣労働の拡大
- 非正規雇用の比率の上昇
- 終身雇用慣行の崩壊
- グローバル化による国際的な賃金競争
- IT化・プラットフォーム経済の登場
これらが組み合わさって、雇用は「柔軟化」していきました。 企業にとっては、人件費を機動的に調整できる仕組み。 ですが、働く側にとっては、不安定で予測不能な人生を意味しました。
吉岡のノートでは、こう整理されています。
1990年代に「グローバリズム」という名で世界を席巻した新自由主義・アメリカナイゼーションの下で、自らの不安定な「生」を強いられながらも、その競争への参加を「放棄」する人々は、上記のカテゴリーにとらわれることなく、この範疇に包摂されうる。
5. ガイ・スタンディングのプレカリアート論
プレカリアートを階層概念として体系化したのが、イギリスの労働経済学者ガイ・スタンディング(Guy Standing)でした。 彼は2011年の著作『プレカリアート:不平等社会が生み出す危険な階級』(The Precariat: The New Dangerous Class)で、
- プレカリアートは、伝統的な労働者階級とも、中間層とも違う、新しい階層
- この階層が、政治的に危険な存在になりうる(極右ポピュリズムの支持基盤になりやすい)
- だから、ベーシックインカムのような、新しい社会保障の仕組みが必要だ
──と論じました。 スタンディングのプレカリアート論は、世界中で読まれ、政策議論にも影響を与えています。
6. 日本のプレカリアート
日本でも、プレカリアート的な状況は、深刻に広がっています。
- 非正規雇用の比率:労働者全体の約4割
- 就職氷河期世代の長期的な困窮
- ヤングケアラー、シングルマザーの貧困
- フリーランス・ギグワーカーの不安定さ
- 「親ガチャ」「タイパ」など、世代の感覚の変化
これらは、新しい社会的リスク(→ #56)の議論や、相対的貧困(→ #37)の議論とも深く重なります。 日本の労働市場のなかで、プレカリアートは確実に厚みを増しています。
7. 政治的含意
スタンディングが警告したように、プレカリアートは政治的な意味も持ちます。
- 既存の政党や労働組合に代表されていない
- 経済的不安と社会的孤立を感じている
- 「既得権益」への怒りを抱きやすい
- ポピュリズム、極右、陰謀論への動員対象になりやすい
トランプ現象、ブレグジット、欧州の極右政党の台頭──。 これらは、プレカリアート的な層の不安と怒りが、政治の表面に出てきた現象として読むこともできます。
逆に、左派の側からは、プレカリアートを新しい連帯の主体として組織する試みも続いています。 労働組合の再編、ベーシックインカム議論、社会的投資政策──こうした議論は、プレカリアートに応える試みです。
8. インタビュー研究と、プレカリアート
TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、プレカリアートの手応えは、しばしば登場します。
- 「派遣を転々として、もう何年経つだろう」
- 「正社員になりたかったけど、就職氷河期で諦めた」
- 「フリーランスは自由だけど、社会保障がないのが怖い」
- 「子どもに、安定した働き方を望むけど、それが難しい時代だと感じる」
これらの語りは、プレカリアートが「個人の選択」ではなく、社会経済構造の変化によって作られていることを教えてくれます。 プレカリアートの補助線を持っていると、こうした経験を、たんなる「個人の不運」ではなく、新しい階層形成の現象として読みほぐすことができます。
結び
プレカリアートは、新自由主義時代に登場した、新しい階層概念です。
「働けば食べていける」という近代の前提が、揺らいでいます。 そして、その揺らぎのなかで、不安と怒りを抱えた人々が、世界中で広がっている。
この新しい階層に、社会としてどう応えるか。 ベーシックインカム、社会的投資、新しい労働組合、地域での相互扶助──。 さまざまな処方箋が議論されていますが、決定打はまだありません。
プレカリアートの議論は、いまも世界の政治と社会の中心にあります。 私たちひとりひとりが、自分の働き方と社会のかたちを、改めて問い直す手がかりになる概念です。
参考資料
- Guy Standing『The Precariat: The New Dangerous Class』(2011)
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「プレカリアート」
- 関連:新しい社会的リスク(#56)、感情労働(#111)、相対的貧困と絶対的貧困(#37)、第三の道(#118)
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】