はじめに
接客業のスタッフが、しんどい日でも笑顔で「いらっしゃいませ」と言う。 看護師が、自分のつらさを脇に置いて、患者と家族の心情に寄り添う。 保育士が、子どもたちの前で、いつも明るく振る舞う。
これらは、たんなる「業務」ではありません。 感情を、職務として管理し、表に出すことが求められる労働です。
この種の労働を、社会学のことばで感情労働(emotional labor)と呼びます。 アメリカの社会学者アーリー・ホックシールド(Arlie Russell Hochschild)が1983年に提唱した概念で、いまも介護・医療・接客の現場で、極めて切実なテーマになっています。
1. 感情労働とは何か
感情労働は、ひとことでいえば、
主に介護や医療、教育などの対人サービス労働において、笑顔を作るなど感情的な配慮が、その労働者の負担になるような労働として成立すること。
を指します(吉岡のノートより)。
ホックシールドが1983年の著作『管理される心』(The Managed Heart)で提示した概念です。 肉体労働(身体を使う)でもなく、頭脳労働(頭を使う)でもない、第三の労働カテゴリ──感情を使う労働を、彼女は名指しました。
2. ホックシールドの問題意識
ホックシールドが最初に注目したのは、アメリカの航空会社の客室乗務員でした。 彼女は、客室乗務員が訓練のなかで、
- どんな状況でも笑顔を保つ
- 苛立つ乗客にも穏やかに対応する
- 自分の本当の感情を抑え、職務上望ましい感情を演じる
──といった感情のコントロールを、徹底的に身につけさせられていることを発見しました。 これは、肉体や知性を売る労働とは別の、新しいタイプの労働です。
そして彼女は、こうした感情労働が、
- 介護
- 看護
- 教育
- 接客サービス全般
──といった対人サービス産業に広く広がっていることを指摘しました。
3. 感情労働の3つのリスク
ホックシールドが指摘した、感情労働のリスクを整理しておきます。
ひとつ目は、燃え尽きのリスク。 労働者が一心不乱に献身し、自分の感情を職務に注ぎ込むうちに、燃え尽きる可能性。 医療・福祉の現場で、いまも深刻な問題になっています。
ふたつ目は、自己分裂のリスク。 労働者が仕事から距離を置き、感情を「演技」していると自覚するうちに、「不正直な自分」を非難するようになる可能性。 本当の自分を見失っていく苦しみが、ここにあります。
三つ目は、シニシズム(皮肉な距離化)のリスク。 自分の演技から自分の仕事を完全に切り離し、「自分はただ夢を売っているだけだ」と皮肉な考えを持つ可能性。 仕事への意味も、自分への信頼も、磨り減っていきます。
これらは、肉体労働の疲労や、頭脳労働のストレスとは違う、感情労働に固有のリスクです。
4. 「管理される心」というタイトルの含意
ホックシールドの本のタイトル『管理される心』は、強い含意を持ちます。
近代社会では、心や感情は「自分のもの」とされてきました。 ですが、感情労働の世界では、心は労働者自身のものではなく、雇用主によって管理される対象になります。
感情労働による偽りが浸透し、真実性が失われることこそが、現代社会の最大のリスク。
ホックシールドは、感情労働の拡大が、社会全体の「真実性」を蝕んでいくことを警告しました。 人々が、職場でも家庭でも、いつも「演じる」自分しか持てなくなったとき、私たちは何を失うのか──。 これが、彼女の根本的な問いでした。
5. ジェンダーと感情労働
感情労働の議論には、ジェンダーの視点が深く絡んでいます。
感情労働は、しばしば女性に多く課されてきました。
- 看護師、保育士、客室乗務員、介護士、受付係──伝統的に女性が多い職業
- 家庭内での感情労働(家族の感情に配慮する、雰囲気を保つ)も、多くは女性が担ってきた
「ケアの倫理」(→ #78)の議論とも、深く重なります。 感情労働を社会的に可視化することは、女性の労働を正当に評価し直すことでもあります。
近年では、男性も感情労働を求められる場面が増えています。 営業職、接客、医師、教師──。 感情労働は、いまや多くの職業の中核になっています。
6. 『タイム・バインド』──仕事と家庭の逆転
ホックシールドは、1997年に『タイム・バインド』(The Time Bind)という本も書いています。 ここで彼女は、現代の働く親(特に母親)の状況を観察しました。
ほとんどの親は、「家族が最優先」と答えます。 ですが、職場がフレックスタイムや育児休暇などの「家族に優しい」制度を用意しても、それを利用しない人が多いことを、彼女は発見しました。
なぜか? 彼女の結論は、こうです。
家と仕事の役割が、逆転している。
仕事のほうが、刺激的で、達成感があり、評価される。 家のほうは、感情労働の要求が多く、評価もされず、ストレスの多い場になっている。 だから、人々は仕事を優先するようになる──。
これは、感情労働論を家庭にも拡張した、重要な指摘でした。
7. インタビュー研究と、感情労働
TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、感情労働のしんどさは、ほぼ必ず登場します。
- 「医療の現場で、患者さんに笑顔で対応するのが、本当にしんどい時期があった」
- 「保育士として、子どもたちに明るく接することが、自分の心を磨り減らしていた」
- 「クレーム対応で、何度頭を下げても、自分の感情を抑え続けるのが辛かった」
- 「家のなかでも、家族の機嫌を取り続けてきた」
これらの語りは、感情労働が「個人の弱さ」や「性格の問題」ではなく、労働の構造的な特性であることを教えてくれます。 感情労働の補助線を持っていると、こうした経験を、社会学的に位置づけ直すことができます。
そして、TSIR のYOSHIOKA-01 プロジェクト(療育や発達支援の現場のインタビュー)でも、ケアの仕事に従事する方々の感情労働は、中心的なテーマのひとつです。
結び
「笑顔をつくる」ことが、仕事になる時代。 「人に寄り添う」ことが、賃労働として商品化される時代。
それ自体は、近代社会の必然かもしれません。 ですが、その代償として、労働者の心がすり減り、社会全体の「真実性」が失われていく──。 ホックシールドの感情労働論は、この危うさを40年以上前に名指しました。
「感情の労働」をきちんと評価し、その負担を社会で支える仕組みを作っていくこと。 これは、ケア社会の未来にとって、いちばん基礎的な課題のひとつだと思います。
参考資料
- アーリー・ホックシールド『管理される心』(1983)、『タイム・バインド』(1997)
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「感情労働」
- 関連:正義の倫理とケアの倫理(#78)、新しい社会的リスク(#56)、シャドーエコノミー(#92)
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】