はじめに
水道、医療、介護、保育、教育、郵便、電気、ガス、鉄道──。 かつては「公共のもの」とされてきた多くの領域に、市場の論理が入り込んでいます。 この変化を、社会学・経済社会学のことばで市場化(marketization)と呼びます。
ひとことで「市場化」と言っても、それが何を指しているかは文脈によってずいぶん違います。 今回は、この多義的な概念を整理しておきたいと思います。
1. 市場化とは何か
市場化は、ひとことでいえば、
広義には、自由競争のもとで、利潤追求を目的とする市場経済に経済活動を委ねること。
を指します(吉岡のノートより)。
市場化が指し示す対象は、文脈によって幅広い意味を持ちます。 おおむね、次の3つの文脈で使われます。
ひとつ目は、社会主義国家における経済の市場化。 中国のような社会主義国家が、その経済活動の一部を市場に開放していくプロセス。 1978年以降の中国の改革開放、ベトナムのドイモイ政策などが、この意味での市場化です。
ふたつ目は、公共サービスの民間移管(= 民営化、→ #83)。 これまで国家が運営主体であった
- 年金・医療などの社会保険
- 保育・介護などの福祉
- 電話・郵便・電気・ガス・鉄道などの公共サービス
──を、民間に移管していくこと。
三つ目は、家事サービスの商品化や補助金廃止。 家庭内で行われていた家事サービスを、市場で購入する形に置き換えること。 政府補助金により価格が維持されていた農産物への補助金を廃止し、市場価格に委ねること。
このように、「市場化」は文脈に応じて、まったく違う現象を指す可能性があります。 だから、誰かが「市場化」と言ったら、「どの意味の市場化のことか」を確認することが大事です。
2. 公共サービスにおける市場化
近年、特に重要な意味を持つのが、公共サービスにおける市場化です。
これは、
公共サービスの実施において、官民競争入札・民間競争入札(いわゆる市場化テスト)を活用し、民間事業者の創意工夫を活用することにより、より良質かつ低廉な公共サービス提供を実現するような方法・考え方。
として整理されます。
「官民競争入札」では、公共サービスについて、「官」と「民」が対等な立場で競争入札に参加します。 質・価格の観点から、総合的に最も優れた者が、そのサービスの提供を担う仕組みです。
日本では、2006年の「公共サービス改革法」で、市場化テストが本格的に導入されました。 ハローワークの一部業務、社会保険庁の業務、刑務所の運営など、さまざまな領域で試みられてきました。
3. 市場化を推進する論理
市場化が推進される背景には、いくつかの論理があります。
ひとつ目は、効率性。 市場での競争を通じて、サービスのコストを下げ、質を上げることができる、という発想。 官のなかには、競争原理が働かないので、非効率になりやすい──という見方です。
ふたつ目は、財政再建。 政府の財政負担を減らし、民間の力を活用することで、税金の負担を抑える。
三つ目は、サービスの多様化。 市場の競争を通じて、消費者のニーズに応じた多様なサービスが生まれる、という発想。
四つ目は、新自由主義的な価値観。 市場の自由を最大化し、国家の役割を最小化することが、社会の発展に望ましいという思想。
これらは、1980年代以降の新自由主義の流れと連動して、世界中で市場化を推進する原動力になりました。
4. 市場化への批判
しかし、市場化には、深い批判もあります。
ひとつ目は、「公共性」の毀損。 公共サービスは、利潤追求の対象になじまない領域も多い。 水道、医療、教育、福祉のような領域では、市場化によって、お金を払えない人が排除されてしまうリスクがある。
ふたつ目は、サービスの質の低下。 コスト削減が優先されると、人件費が削られ、人手不足になる。 結果として、サービスの質が下がる現象が、各国で報告されています。
三つ目は、地域格差の拡大。 利潤が見込めない過疎地では、民間事業者が撤退し、サービスが届かなくなる。 特に、医療・公共交通・電気・水道などで、地域格差が深刻になります。
四つ目は、公共財の消失。 水、土地、エネルギーのような「コモンズ」(共有財)が、市場の対象になることで、公共の財産から個人の所有物に変質する。 ミュニシパリズム(→ #80)の議論は、まさにこの危機感のもとで生まれています。
5. 「再公営化」という揺り戻し
近年、世界各地で、市場化された公共サービスを再び公営化する動きが広がっています。
- パリ、ベルリン、グルノーブルなどでの水道の再公営化
- 鉄道や郵便の再国営化議論
- 介護サービスの再公的化
これらは、市場化の問題点が顕在化したことへの揺り戻しです。 「公共サービスは、市場ではなく、公的な制度で支えるべきだ」という考え方が、再び支持を集めています。
ポランニーの議論(→ #81 埋め込み)が予言したように、経済を社会から完全に切り離すことには限界がある。 公共サービスの再公営化は、その認識の現れだと言えます。
6. 市場化の「測りにくさ」
社会学的に難しいのは、市場化の影響を、簡単には測れないことです。
数字で見える効率性(コスト削減、競争入札の落札価格)は、評価しやすい。 ですが、
- サービスを受けられなくなった人の数
- 地域格差の広がり
- 働く人の心理的負担
- コミュニティの崩れ
- 公共性の喪失
──こうした、目に見えにくい影響は、なかなか数字に出てきません。
だから、市場化を評価するときには、見える数字だけではなく、そこからこぼれ落ちる人々の経験にも目を向ける必要があります。
7. インタビュー研究と、市場化
TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、市場化の手応えは、生活感覚として現れます。
- 「介護サービスが民間化されてから、選択肢は増えたけど、選びにくくなった」
- 「保育園が民間中心になって、サービスの質に格差が出ている」
- 「地元の鉄道が撤退して、移動が大変になった」
- 「市場化された業務委託の現場で、人手が足りなくなっている」
これらの語りは、市場化が「効率化」と引き換えに、何を失わせたかを生身の経験として教えてくれます。 市場化の補助線を持っていると、こうした語りを、たんなる「個別のサービスの話」ではなく、社会の設計の問題として読みほぐすことができます。
結び
市場化は、20世紀後半から世界中で進んできた、大きな流れです。
効率性、多様性、財政再建──。 市場化が掲げてきた価値には、もちろん見るべきものがあります。 ですが、すべてを市場に委ねたとき、何を失うのか──この問いも、同時に問い続けなければなりません。
「市場化」という言葉に出会ったとき、それがどの領域の、どの意味の市場化なのか、そして、それによって誰が得をし、誰が困っているのかを、一拍置いて考えてみる。 これが、社会の設計に立ち会うひとつの姿勢だと、私は思っています。
参考資料
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「市場化」
- 関連:プライヴァタイゼーション(#83)、埋め込み(#81)、ミュニシパリズム(#80)、脱商品化(#47)
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】