はじめに

「あの銀行が倒産する」という根拠のない噂が広まる。 不安になった預金者が、預金を一斉に引き出しに行く。 銀行は資金が回らなくなり、本当に倒産する──。

最初の噂には根拠がなかったのに、結果として「噂どおり」の現実が生まれる。 この現象を、社会学のことばで予言の自己成就(self-fulfilling prophecy)と呼びます。

アメリカの社会学者ロバート・K・マートン(Robert K. Merton)が、1948年に体系化した概念で、社会のさまざまな場面で起きている、極めて重要な現象です。

1. 予言の自己成就とは何か

予言の自己成就は、ひとことでいえば、

根拠のない噂や思い込みであっても、人々がその状況が起こりそうだと考えて行動することで、事実ではなかったはずの状況が、本当に実現してしまうこと。

を指します(吉岡のノートより)。

ポイントは、

──という、自己強化のループです。

2. 起源:W・I・トーマスの「トーマスの定理」

予言の自己成就の議論は、もう少し前のシカゴ学派の社会学者W・I・トーマス(William Isaac Thomas)にさかのぼります。

トーマスは、1928年に有名な命題を残しました。 これが「トーマスの定理」(Thomas theorem)として知られています。

「もし人々が、ある状況を現実だと定義するなら、その結果においては、現実となる。」 (If men define situations as real, they are real in their consequences.)

これは、

という、社会学にとって決定的に重要な洞察でした。

マートンは、このトーマスの定理を、20世紀半ばに体系化し、「予言の自己成就」という名で広めました。

3. 具体例で理解する

予言の自己成就の典型例を、いくつか挙げてみます。

事例1:銀行取り付け騒ぎ

「あの銀行が経営難で倒産する」という、根拠のない噂が流れる。 預金者が不安になり、一斉に預金を引き出しに走る。 銀行は資金繰りができなくなり、本当に倒産する。 → 噂は最初は根拠がなかったが、人々の行動によって本当の倒産が起きる。

事例2:株価の暴落

「この株は下がる」と多くの人が予想する。 人々が一斉に売る。 株価は本当に下がる。 → 予想が、自分自身を実現する。

事例3:コロナ禍のトイレットペーパー買い占め(2020年)

「マスクの原料でトイレットペーパーが不足する」というデマが流れる(実際には無関係)。 人々が買い占めに走る。 店頭からトイレットペーパーが消える。 → デマが、本当の品不足を生み出す。

事例4:教師の期待効果(ピグマリオン効果)

教師が「この生徒は優秀だ」と思って接する。 教師の振る舞いが、その生徒に良い影響を与える。 結果として、その生徒の成績が伸びる。 → 教師の予言が、生徒の現実を変える。

これらはすべて、予言の自己成就のパターンです。

4. ロバート・K・マートンと機能分析

予言の自己成就を体系化したロバート・K・マートンは、20世紀のアメリカ社会学の中心人物のひとりです。 タルコット・パーソンズと並ぶ、機能主義社会学の代表者でした。

マートンの社会学上の業績は多岐にわたります。 予言の自己成就のほかに、

──など、現代社会学のいくつもの基本概念を、マートンは作りました。

特に、彼の機能分析では、

──の区別が提唱されました。 たとえば、結果が知られておらず、望ましくない働きを示す場合は「潜在的逆機能」と呼ばれます。

彼の機能分析の狙いは、「意図せざる結果」を明らかにするとともに、従来の機能主義理論に認められた保守性とイデオロギー性を、ともに克服することにありました。

5. 予言の自己破壊

予言の自己成就と対になる、興味深い現象が、予言の自己破壊(self-defeating prophecy)です。

これは、

という現象。 たとえば、

これも、社会の予測と現実の絡まりを示す重要なパターンです。 社会の予測が、その予測自身を否定する現象です。

6. なぜ予言の自己成就が大事か

予言の自己成就の概念は、社会学にとって極めて重要な意味を持ちます。

ひとつ目は、「主観と客観の境界」の問い直し。 社会現象は、自然現象とは違い、人々の認識から独立してはいません。 「みんなが信じている」こと自体が、現実を動かす力を持つ。

ふたつ目は、「誰が予言を発するか」の問題。 権威ある人(専門家、メディア、政府)が予言を発すると、それが自己成就する力は強くなる。 情報を発信する側の責任が、社会的に問われます。

三つ目は、「意図せざる結果」への注目。 良かれと思った予測が、結果として悪いものを生んでしまうことがある。 予測の社会的影響を、慎重に考える必要があります。

7. SNS時代の予言の自己成就

予言の自己成就は、SNS時代にいっそう加速しています。

情報の伝達速度が上がるほど、予言の自己成就のループは速く回転する。 ファクトチェックの遅れと、感情的な拡散が組み合わさると、社会は予測どおりに動かされていきます。

8. インタビュー研究と、予言の自己成就

TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、予言の自己成就の手応えは、しばしば登場します。

これらの語りは、社会的なラベルや期待が、個人や集団の現実をどう動かしているかを教えてくれます。 予言の自己成就の補助線を持っていると、こうした経験を「個人の心の問題」だけでなく、社会的な動きの問題として読み直すことができます。

結び

「思い込みが、現実を作る」──。 この社会学的な真実は、私たちの日常のあちこちに、影響を与えています。

噂、レッテル、ステレオタイプ、期待──。 これらは、たんなる「気のせい」ではなく、現実を作る力を持っています。

自分の発信が、誰かの現実を作っていないか。 自分の思い込みが、自分自身を縛っていないか。 予言の自己成就を意識することは、自分の言葉と判断に責任を持つための、ひとつの作法です。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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