はじめに

「これでいいのか、わからない」 「みんな何を目指しているんだろう」 「がんばっても、報われる気がしない」

社会の変化が激しいとき、私たちはこうした感覚に襲われることがあります。 それまで当たり前だったルールや価値観が揺らぎ、何を信じて生きていけばいいかが見えなくなる。

この状態を、社会学のことばでアノミー(anomie)と呼びます。 19世紀のフランスの社会学者エミール・デュルケーム(Émile Durkheim)が中心に据えた概念で、近代社会のもっとも根深い病理のひとつを名指す言葉です。

1. アノミーとは何か

アノミーは、ひとことでいえば、

社会規範の動揺や崩壊によって、その社会の人々がいろいろな多くの欲求を抱いたり、価値や行為の基準がなくなり、各人が好き勝手するようになった無規制状態。

を指します(吉岡のノートより)。

語源は、「法律のない状態」を意味するギリシャ語 anomos に遡ります。 ですが、デュルケームが言うアノミーは、法律のない無政府状態のことではありません。 人々を内側から導く道徳的な規範(→ #45 道徳的連帯)が、機能しなくなった状態を指しています。

2. デュルケームのふたつのアノミー

デュルケームは、アノミーを少しずつ異なる文脈で2回、論じました。

ひとつ目:『社会分業論』(1893)

ここでのアノミーは、分業の異常発達の結果生じる、社会的諸機能の不整合状態を指します。 社会の分業が進みすぎると、各部分の連絡が失われ、システムとして機能しなくなる。 急速な産業化のなかで、社会のなかのつながりがほつれていく状況を、彼はアノミーと呼びました。

ふたつ目:『自殺論』(1897)

ここでのアノミーは、より個人の心理に近いところを指します。 経済の急成長のような社会生活条件の急変によって起こる、人々の欲求の異常な肥大。 急に豊かになった社会では、人々の欲望が無制限に広がり、何を目指せば満足できるかが分からなくなる。 その結果、欲求不満や挫折感が生まれ、ときに自殺へとつながる──。 これがデュルケームの言う「アノミー的自殺」(→ #05 自殺の3類型)です。

3. なぜ社会が「豊かになる」と、アノミーが起きるのか

意外に思うかもしれませんが、デュルケームは、

と論じました。

理由はこうです。 貧しい時代は、人々の欲望は社会の枠に収まっています。 ところが、急に豊かになると、「もっと、もっと」と欲望が解放される。 ところが、その新しい欲望を、社会の規範はまだ縛れない。 結果として、人々は「どこまで望んでいいか、わからない」という宙吊りの状態に陥ります。

この状態こそが、アノミー的な苦しみの正体です。

4. 現代社会のアノミー

デュルケームの議論は、19世紀末のフランスの話ですが、現代社会にもそのまま当てはまります。

これらはすべて、現代版のアノミーとして読むことができます。 近代化が進むほど、伝統的な規範は弱まり、人々は「自由」を手にしますが、同時に「指針のなさ」という苦しみも抱えるようになります。

5. マートンによるアノミー論の拡張

デュルケームのアノミー概念は、20世紀半ばに、アメリカの社会学者ロバート・K・マートン(Robert K. Merton)によって拡張されました。

マートンは、アノミーを「文化的目標と、それを達成する制度的手段のあいだのギャップ」として捉え直しました。 たとえば、アメリカ社会では「成功して金持ちになる」という文化的目標が広く共有されているのに、その目標を達成するための合法的手段(教育、就職)は、特定の階層にしか開かれていない。 このギャップが、犯罪や逸脱を生む──というのが、マートンのアノミー=緊張理論(strain theory)でした。

これは、犯罪社会学・逸脱論の出発点になり、いまも世界中で参照されています。

6. インタビュー研究と、アノミー

TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、アノミー的な手応えは、しばしば登場します。

これらの語りは、その人個人の弱さではなく、社会のなかで規範が揺らいでいる時代を生きていることの現れです。 アノミーの補助線を持っていると、こうした語りを、たんなる「不安」ではなく、社会構造の問題として読みほぐすことができます。

結び

アノミーは、近代社会が抱える最大の病理のひとつです。

伝統的な規範が崩れ、自由が広がるのは、ある意味で進歩です。 ですが、その自由のなかで、人々は「何を目指せばいいか」を見失い、内側から苦しむようになる。

この苦しみを「個人の弱さ」に閉じ込めず、社会の構造のなかで起きていることとして見ること。 それが、デュルケームから現代へと受け継がれてきた、社会学のひとつの大切な仕事です。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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