はじめに

スーパーで買う野菜、Uber Eatsで頼む夕食、宅配便で届く服。 私たちの暮らしは、ほとんどがお金を払って買うものでできています。

ところが、近代以前の人々の暮らしは、もう少し違っていました。 家で野菜を育て、近所で物を貸し借りし、家族や仲間と道具を共有する。 お金を介さない、土地と人に根づいた営みがありました。

この「土地と人に根づいた暮らし」を、社会学・思想史のことばでヴァナキュラー(vernacular)と呼びます。 ハンガリー出身の思想家イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)が、1980年代に注目を集めさせた概念です。

1. ヴァナキュラーとは何か

ヴァナキュラーは、ひとことでいえば、

その土地ないしは、その集団ごとの暮らしに根ざした固有の領域。

を指します(吉岡のノートより)。

語源はラテン語の vernaculum。 インド・ゲルマン語系の「根づいていること」と「居住」の感覚を含む言葉です。

「ヴァナキュラー」と聞くと「方言」のように響きますが、イリイチが扱ったヴァナキュラーは、もっと広いものでした。 場所、言語、道具、ジェンダー、ケア──さまざまな次元に「土地と人に根づいた領域」が含まれます。

2. イリイチの問題意識

イリイチは1980年代の著作『シャドウワーク』などで、近代社会の進展がヴァナキュラーをどのように侵食してきたかを論じました。

近代化のなかで、人々の暮らしは、

──へと、急速に置き換えられていきました。

イリイチは、これを「進歩」とは見なかった。 むしろ、人が自律的に生きる能力を奪われていく過程として、批判的に捉えました。

3. 路地と広場の例

イリイチが分かりやすく挙げた例のひとつが、路地や広場における場所です。

近代的な「交通としての道路」が整備される以前、街の路地や広場は、人々が主として出会い、交流し、別れる場でした。 そこに居る人々のためにある空間です。

そこでのヴァナキュラーは、

ある場所から、自分の身の丈に合ったものを引き出し、道具として利用する生活のこと。

近代的な道路は、効率的に車を走らせるための「交通路」になっていきます。 人と人の偶発的な出会いの場としての路地・広場は、減っていく。

これはたんなるノスタルジーではなく、人々の暮らしのなかから身の丈に合った場所が失われていく過程として、社会学的に重要な変化です。

4. 「自律的主体」と「他律的主体」

イリイチは、ヴァナキュラーを生きる人々のことを自律的主体と呼びました。

自律的主体は、

そんな生活様式のなかで生きる人々です。 イリイチはこれを「人間生活の自立と自存」と表現しました。

これに対して、貨幣による交換形態や、制度化されたサービスを通じて生活する人々を、彼は他律的主体と呼びました。 他律的主体は、商品とサービスを享受しているように見えて、じつは従属的な存在だ、と彼は指摘しました。

つまり、

このふたつの対比のなかで、近代社会のなかで失われたものを問い直すのが、イリイチの仕事でした。

5. ヴァナキュラーの現代版

イリイチの議論は、1980年代のものですが、いまの私たちにとっても、まったく古びていません。 むしろ、ますます切実に響きます。

これらはすべて、ヴァナキュラーの現代版だと言えます。 完全に市場や制度から離れるのは難しい。 ですが、その一部を「自前」「互酬」「身の丈」に置き換えていく試みは、いまも各地で続いています。

6. インタビュー研究と、ヴァナキュラー

TNN がインタビューを通して聴く語りのなかにも、ヴァナキュラーへの志向は、しばしば顔を出します。

これらの語りは、貨幣や制度に依存する暮らしのなかで、なお身の丈の領域を確保しようとする試みとして読めます。 ヴァナキュラーの補助線を持っていると、こうした選択を、たんなる「節約」や「趣味」ではなく、生活の自律性をめぐる選択として聴き直すことができます。

結び

イリイチが「ヴァナキュラー」という古いラテン語を引っ張り出してきたのは、近代化のなかで私たちが失ったものに、名前を取り戻すためでした。

すべてをお金や制度で買えてしまう便利な世界のなかで、それでも自分の手で、近所の人と一緒に、その土地のなかで生きる領域を持ち続けること。 ここに、近代を完全に逆戻りさせるのではなく、近代の内側で別のあり方を試す道があると、イリイチは示しました。

身の丈に合った暮らしを、ひとつでも多く取り戻すこと。 これは、いまの私たちにも、開かれた課題です。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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