はじめに

会議で、自分の意見が「少数派」と感じた瞬間、発言をためらった経験はないでしょうか。 SNSで、自分の考えが「炎上しそう」と感じて、投稿を消したことは。 学校で、みんなが笑っているなか、自分だけが違和感を持っても、声を上げられなかったことは。

私たちはふだんから、「自分の意見が周囲とどう違うか」を測りながら、発言の量を調整しています。 そして、少数派と感じれば、しばしば沈黙する。

この、社会全体で起きる「少数派の沈黙化」のメカニズムを、社会学のことばで沈黙の螺旋(spiral of silence)と呼びます。 ドイツの政治学者・世論研究者エリザベート・ノエル=ノイマン(Elisabeth Noelle-Neumann)が、1966年に提唱した、世論研究の基本概念です。

1. 沈黙の螺旋とは何か

沈黙の螺旋は、ひとことでいえば、

同調を求める社会的圧力によって、少数派が沈黙を余儀なくされていく過程。

を指します(吉岡のノートより)。

ノエル=ノイマンは、この現象を螺旋(らせん)のかたちで描きました。 最初は少数派でも、沈黙が広がるとさらに少数派に見え、より沈黙が深まる──というスパイラル状の動きです。

2. 仕組みを段階で見る

沈黙の螺旋がどう動くか、段階を追って見てみましょう。

ひとつ目に、人は周囲の意見の動向を敏感に察知する能力を持っている。 これをノエル=ノイマンは「準統計的な感覚」と呼びました。 個別の調査をしなくても、「最近の空気はこんな感じ」と感じ取れる感覚です。

ふたつ目に、自分の意見が多数派と一致していると感じると、人は積極的に発言する。 自分の意見が少数派だと感じると、人は発言を控える、あるいは黙る。

三つ目に、結果として、

──という非対称が生まれる。

四つ目に、この非対称を見て、少数派の人々はさらに「自分は孤立している」と感じ、いっそう沈黙する。

このループが、螺旋のように下降していく──。 これが、沈黙の螺旋の動きです。

3. なぜ人は沈黙するのか

人がなぜ「少数派」と感じると沈黙するのか? ノエル=ノイマンの答えは、孤立の恐怖でした。

人間は、社会的な動物として、集団から孤立することを根本的に恐れます。 意見の表明によって、

──といった社会的な制裁を受けるリスクを、人は本能的に避けようとします。

これは、たんなる弱さの問題ではなく、人間が社会的な存在であることの帰結です。 だから、沈黙の螺旋は、誰にでも起きうる現象です。

4. マスメディアと沈黙の螺旋

ノエル=ノイマンの議論で、もうひとつ重要なのが、マスメディアの役割です。

人々が「世論の方向性」を察知するとき、しばしばマスメディアの報道に依存します。

つまり、マスメディアは「世論を映す鏡」ではなく、「世論を作る装置」として機能している側面がある──というのが、ノエル=ノイマンの指摘でした。

この議論は、メディア論や政治コミュニケーション研究にとって、極めて影響力のあるものになりました。

5. SNS時代の沈黙の螺旋

ノエル=ノイマンの議論は1960年代のものですが、SNS時代にいっそう切実になっています。

ひとつ目は、「炎上」の脅威。 SNS上で「少数派」と見なされた意見が、攻撃の対象になる。 人々はますます、発言を慎重にする。

ふたつ目は、「バブル」の問題。 アルゴリズムが、似た意見を持つ人ばかりを表示する。 結果として、「自分の意見が多数派」と錯覚するバブルのなかで、少数派の声がさらに聞こえなくなる。

三つ目は、「沈黙する側に立つ恐怖」。 SNS上で何も言わないこと自体が、「無関心」や「賛成」と解釈されることがある。 発言しても、しなくても、リスクがつきまとう状況です。

これらの状況のなかで、沈黙の螺旋はますます速く、深く回転していく可能性があります。

6. 沈黙の螺旋への反論

ノエル=ノイマンの議論には、いくつかの反論もあります。

ひとつ目は、「ハードコアな少数派」の存在。 ある意見の少数派でも、自分の信念を強く持ち、沈黙しない人々がいる。 社会運動家、活動家、宗教的少数者──。 こうした人々の存在が、螺旋を止める力になることがある。

ふたつ目は、「意見の種類」による違い。 すべての意見が、沈黙の螺旋にかかるわけではない。 道徳的・感情的な争点(妊娠中絶、移民、ジェンダーなど)では強く働くが、技術的な争点では弱い、という研究もある。

三つ目は、「インターネットの双方向性」。 ノエル=ノイマンが想定したのは、一方向のマスメディアの世界。 インターネットの双方向性のなかでは、少数派が結びついて、新しい多数派を作ることもある。

7. インタビュー研究と、沈黙の螺旋

TSIR がインタビューを通して聴く語りのなかにも、沈黙の螺旋の手応えは、しばしば登場します。

これらの語りは、社会のなかで「話せなかった経験」を示しています。 インタビュー研究の重要な役割のひとつは、こうした沈黙の螺旋のなかで埋もれてきた声を、ひとつずつ聴き取っていくことです。

TSIR が大切にしている「ひとりの語りを丁寧に聴く」という姿勢は、まさに沈黙の螺旋の外側で、人々の経験を取り戻す作業でもあります。

結び

「みんながそう言っているから」──。 この感覚は、私たちの発言を、知らないうちに縛っています。

沈黙の螺旋は、たんに「気が弱い人が黙る」現象ではありません。 人間が社会的な存在である以上、誰にでも起きうる、構造的なメカニズムです。

だからこそ、

──を、一拍置いて考えてみる癖をつけることが、現代を生きる作法のひとつです。

そして、研究者として、社会の「沈黙の領域」に光を当て続けること。 これは、TSIR の仕事の根っこにある問題関心でもあります。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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