はじめに

こんにちは、野良研究者のtapiです。

無名人インタビューの「子どもを持つ理由・持たない理由」インタビューについて、noteの質問箱にご質問をいただきました。記事を細部まで読み込んでくださったうえで、時間と手間をかけて言葉にして送ってくださったこと、まずは心から感謝しています。

ご質問は、インタビューの中のひとつの設問、「遺伝子の多様性」をめぐる質問についてのものでした。

質問箱では短くしかお答えできないので、このコラムで少しじっくりと書いてみます。内容は次の5つです。

社会学の論文では、ふつう、こうしたやりとりは表に出てきません。設問の言葉づかいを、聞き手・話し手・読者のあいだで擦り合わせていく。そんな機会をいただけたこと自体が、noteという場で在野研究をしている醍醐味だと感じています。

1. 届いたご質問と、現在の質問文

いただいたご質問は、次のとおりです(質問箱に公開されているものを、そのまま引用します)。

「子どもを持つ・持たない」インタビューについて。障害当事者として読んでいて気になった点があります。「障害の有無も含め、遺伝子や個人の特徴が多様であるほど種として強く、存続しやすい」という趣旨の質問を複数の方にされていますが、障害には遺伝的要因によらないものも多く、「障害の有無」と「遺伝的多様性」をこのように結びつけるのはかなり大雑把に感じました。また、回答者側から出た認識ではなく、インタビュアー側からこの前提を提示することの誘導性も気になります。この設問を学術研究のインタビューに設定された意図や根拠を伺いたいです。

論点は大きく3つあると受け取りました。

  1. 「障害の有無」と「遺伝的多様性」を結びつけることの大雑把さ
  2. 聞き手の側から前提を示すことの誘導性
  3. 学術研究としての意図と根拠

そして、現在の質問要領に書いている設問は、次のとおりです(「子どもを持つ理由・持たない理由 インタビュー質問要領」第三稿より引用)。

人間を動物と捉えると、(人種、身長や体重の多様性や、障害の有無などを含めて)遺伝子・特徴は多様であるほど種として強い・存続しやすいという考え方については、どう思いますか。

この設問は、「人間の『生殖』『繁殖』や動物としての側面」というパートの中に置いています。そして、その少し前では、次の質問をしています。

出生前診断、受精卵を調べる生殖技術については、どう思いますか。

このふたつの並びが、次の「設問の意図」につながります。

2. 設問の意図:理念と実践のあいだの揺らぎを聞く

この設問で聞きたかったのは、ひとことでいえば、

社会の理念として「正しい」と思うことと、自分の人生の選択として実際にすることのあいだに、どんな揺らぎがあるのか。

ということです。

たとえば、「障害の有無も含めて、人は多様であっていい」という考え方には、多くの人が賛成すると思います。一方で、いざ自分が子どもを持つとなったとき、出生前診断を受けるかどうかは、また別の問題として立ち上がってきます。

「理念としては賛同します。でも、出生前診断は受けると思います」。もしそう語る人がいたとしても、私はそれを「矛盾している」とはまったく思いません。私も同様の思想をもち、同様の行動をとっているからです。むしろ、その揺らぎのなかにこそ、綺麗事を抜きにした「本当のところ」や、まさしくインタビューという研究手法を私が採用する醍醐味があると考えています。

こういった意図から、出生前診断についての質問と、多様性についての質問を、近い位置に並べました。

この問いには、先行する議論がある

この揺らぎは、私が思いついたものではもちろんなく、障害学や生命倫理のなかで長く議論されてきたテーマです。

代表的なのが、出生前診断に対する、いわゆる「表出主義的批判」(expressivist objection)です。障害のある子の誕生を避けるために生殖技術を使うことは、障害とともに生きることへの否定的な評価を含み、それを社会に向けて表してしまうのではないか、という議論です。障害者運動の側から提起されてきたもので、Parens と Asch が編んだ論集(2000年)がよく参照されます。

この批判は、出生前診断を受ける個人を責めるものというより、個人の選択と社会のメッセージが重なってしまうことを問うものだと私は理解しています。インタビューでも、その重なりを、ひとりひとりの語りのなかで確かめたいと考えていました。

3. 「障害」という言葉:ご指摘のとおり、ざっくりとした用語法である

ご指摘のとおり、障害には遺伝によらないものがたくさんあります。そして、私が設計したインタビューの質問文は、その区別をしていませんでした。

生まれつきの障害も、多くは「遺伝」ではない

たとえば、生まれたときからある疾患(先天性疾患)でさえ、遺伝的な異常が原因のものは少数です。WHOは、新生児の先天性疾患には遺伝のほか、母体の感染症、放射線、栄養不足、薬物などの環境要因もあり、心臓の疾患や口唇口蓋裂など多くのものは原因がわかっていない、と説明しています。

さらに、事故や病気によって人生の途中で障害をもつ人もいます。精神障害も、単一の遺伝要因では説明できず、環境の影響が大きいとされています。

私自身も、いくつかのインタビューで自ら語っていますが、躁鬱や適応障害といった精神障害を抱えています。だからこそ「障害」という言葉が日常のなかで指す範囲の広さは、実感として認識しています。

「インペアメント」と「ディスアビリティ」

もうひとつ、社会学の側から見ても、言葉の選び方が不正確だった側面もあるかもしれません。

以前このサイトでも書いた障害の社会モデル(#14)では、「障害」をふたつに分けて考えます。

この区別に沿えば、私が「遺伝」と結びつけて聞きたかったのは、正確には遺伝的な要因によるインペアメントのことです。一方でたしかに、「障害の有無」という言い方は、社会の側がつくっているディスアビリティまでまとめて「遺伝」の話に入れてしまうように読めます。ご指摘の「大雑把さ」は、まさにここにあったと思います。

4. 「人種」「身長や体重」を並べたこと

ご質問では触れられていませんでしたが、改めて質問文を読み返して、私自身がもっと気になった点がありました。カッコ書きで並べた「人種」です。

「人種」は、遺伝的なまとまりとしては弱い分類だと考えられている、ということを、本インタビュー研究の企画を始めてから、勉強を進める中で知りました。進化生物学者のリチャード・ルウォンティンは、1972年の論文で、人類の遺伝的な多様性の約85%は同じ集団の内側にあり、いわゆる「人種」のあいだの違いは6%ほどにすぎないと推定しました。この研究は、「人種」を生物学の概念として使うことから離れていく流れに、大きな影響を与えています。

「身長や体重」も、遺伝だけで決まるものではなく、栄養や生活環境に大きく左右されます。

つまり、カッコ書きのなかの要素は、遺伝との関わり方がそれぞれ大きく異なるものだったということに、今回改めて気づきました。それを「遺伝子・特徴は多様であるほど」という一本の線でつないでしまったことに、生物学的な見地からの誤認と、私の勉強不足があったと考えています。

5. 「遺伝的な多様性」は、生物学でどう語られているか

では、なぜ「遺伝的な多様性」という言葉を使ったのか。私としては、優生学を否定する視点を、生物学の側から入れてみたいという意図がありました。ここでは、その発想のもとになった生物学の議論と、その限界を整理しておきます。

有性生殖と「赤の女王仮説」

オスとメスがいて子どもをつくる有性生殖は、じつは効率の悪い仕組みです。メスだけで増える無性生殖と比べると、子を産まないオスをつくる分、増え方が半分になります。これは「性の二倍のコスト」と呼ばれ、それでもなぜ有性生殖が広く残っているのかは、進化生物学でいまも決着していない問題です。

有力な説明のひとつが「赤の女王仮説」です。ウイルスや細菌などの寄生者は世代交代が速く、どんどん変異します。それに対抗するために、宿主の側は有性生殖で遺伝子を混ぜ続け、親とも兄弟とも違う個体を生み出している、という考え方です。実験でも、線虫を病原菌と一緒に進化させると、自家受精だけで増える集団は短期間で絶滅し、他の個体と交配する集団は生き残ったという結果が報告されています。

「障害」と結びつく例:鎌状赤血球

遺伝性の疾患が、ある環境では集団にとって有利に働く例もあります。よく知られているのが鎌状赤血球症です。原因となる遺伝子を片方の親からだけ受け継いだ人は、マラリアにかかりにくい。そのため、マラリアの多い地域では、この遺伝子が一定の頻度で集団に残り続けます(平衡選択と呼ばれます)。

それでも、ここには限界がある

ただし、これらを根拠に「障害を含む多様性が種を強くする」とまで言うことはできません。

質問文の「多様であるほど種として強い・存続しやすい」は、こうした条件や限界を落として、一般則のように書いてしまっていました。ここにも、生物学的な見地からの誤認があったと考えています。

ちなみに、この発想のきっかけのひとつは、COTEN RADIOの「障害の歴史編」でした。ダーウィンの進化論が社会進化論や優生学へと「誤解」されていく流れと、遺伝学者たちによる優生学批判が、わかりやすくまとめられています(社会進化論については、このサイトの #74 でも書きました)。

6. 「種として強い」という言い方の危うさ

書きながら気づいたことが、もうひとつあります。私は優生学を否定するつもりでこの設問を置きました。でも、「種として強い・存続しやすい」という言い方そのものが、優生学と同じ物差しを使っていたのではないか、ということです。

結論は逆でも、物差しは同じ

優生学は、「集団の質を高めるために、障害を減らすべきだ」と考えました。私の質問文は、「多様であるほど種として強いのだから、障害も含めて多様であっていい」と読めます。

向きは逆です。でも、どちらも「集団にとって役に立つかどうか」で、障害のある人の存在を評価しています。もし生物学が「障害は集団の役に立たない」という結果を示したら、この論理では、障害のある人の存在を擁護できなくなってしまいます。

この点は、障害学のなかでも議論されています。障害学者のローズマリー・ガーランド=トムソンは、障害がなくなれば世界はよくなるという考え方を「優生学的論理」と呼び、障害を人間の条件に本来含まれるものとして、なくすのではなく保存すべき理由を論じました(2012年)。一方で、彼女の議論に対しては、「人間の遺伝的多様性には価値がある」という漠然とした直観以上の根拠になっていない、という批判も出ています。

優生学を否定する根拠は、人権にある

では、優生学はなぜ否定されるのか。それは、生物学的に「集団にとって得か損か」ではなく、一人ひとりの尊厳と平等の問題だからです。

日本では、旧優生保護法のもとで、1948年から1996年まで障害のある人などへの不妊手術が行われていました。2024年7月3日、最高裁判所の大法廷は、その規定が憲法13条(個人の尊重)と14条1項(法の下の平等)に違反すると判断しています。

生物学ができるのは、「優生学は科学的にも前提が誤っていた」と示すところまでです。優生学を否定する理由そのものは、人権の側に置くべきでした。

※ ただし、社会学の中でも言語派社会学という系譜で在野研究を行っていきたい私としては、この「人権」という言葉も、非常にトリッキーだと頭を悩ませています。

すなわち、私の最大の研究関心は「動物倫理」「動物の権利」なのですが、この、優生学を否定する根拠を「人権」すなわち「人の権利」にあるとしてしまうと、では「劣等種」と一般に認識される動物たちの扱いは、蔑ろにしてもいいのか、などの論点が立ち現れます。

こうした言葉、日本語に刷り込まれた「人間中心主義」も、私の大きな関心の一つなのですが、それは別の機会に論じたいと思います。

7. 聞き方の誘導性について

ご指摘のもうひとつの論点、聞き手の側から前提を示すことの誘導性についても、正面から考えておきたいです。

「AはBだ、という考え方についてどう思いますか」という聞き方は、インタビューでしばしば使われる手法です。話し手が自分では言葉にしにくいテーマについて、考えるきっかけを渡すことができます。

ただ、この形式には弱点もあります。

今回は、「優生学を否定する視点を入れたい」という私の意図は、あえて質問文からは読み取れない形としていました(「優生学の否定」という意図が読み取られると、余計に誘導性が増すと考えたためです)。意図がどうであれ、回答者から見れば、聞き手が出した前提に答える構造になっていたことは確かです。

一方で、このインタビュー質問の一つ前は、同じく個々人の選択や考え方に限らない、一般命題を題材にした以下のような質問です。

人間を動物と捉えれば(少子化の勢いがすごいですが)生殖・繁殖・子孫を残すことは自然な行動だ、なんで少子化なんだろう?との考え方もあると思いますが、どう思いますか。生殖=自然の摂理、本能という考え方については?

この質問には、インタビュイーから実にさまざまな意見や考えが表明されました。すなわち、同じような「聞き手の側から前提を示す」質問の形式をとっていても、その前提が必ずしもインタビュイーの思考の誘導にはならず、「考えるきっかけを渡す」、そして、その考えを言葉にしてもらう、という、有効な設計となっていることが見て取れます(実際にどのような意見や考えが表明されているかは、詳しくは個々のインタビュー記事をご参照ください)。

8. 新しい質問案

今回、質問箱でのご質問を受けて、該当の設問を次のように見直そうと考えました。方針は3つです。

見直し後の質問

  1. (出生前診断のあとに) 社会として、障害のある子どもが生まれることを、どう受けとめていくべきだと思いますか。
  2. そのうえで、ご自身が子どもを持つ(持つかもしれない)としたら、どうしたいと思いますか。
  3. 1と2のあいだに、ずれや迷いを感じることはありますか。あれば、どんなところですか。

深掘りするときに行う質問

話し手の側から、「人間も生き物だから」「遺伝」「自然の摂理」といった生物学的な見方が出てきた場合などは、次のように聞きます。

  1. (質問例)今おっしゃった「人間を生き物として見る」見方は、ご自身の子どもを持つ・持たないの考えに、どんなふうに影響していますか。

こうすることで、理念と実践の揺らぎを聞くという設問の意図は残しながら、聞き手が前提を持ち込むことを、できるだけ避けられると考えました。

なお、これまでに実施したインタビューでの回答は、記事にするときに、この設問の聞き方を注記したうえで扱います。

結び

理念と実践のあいだの揺らぎを聞きたいという意図は、いまも変わっていません。なぜなら、まさしくその揺らぎこそが、私自身が自分の人生で直面している困難であり、在野研究を続ける理由だからです。

設問の言葉は、一度書いたら終わりではなく、聞き手・話し手・読者のあいだで、何度でも擦り合わせていくものなのだと思います。今回のご質問は、その作業を、私ひとりではたどり着けなかったところまで進めてくれました。

あらためて、ご質問をくださった方に、お礼を述べたいと思います。これからも、このインタビューについて気になる点があれば、どなたでも遠慮なく質問箱に送ってください。

付記:本HPに掲載されているコラムなどでのLLMの利用について

このコラムの執筆にあたって、先行研究や学説のリサーチ、事実関係の確認に、LLM(大規模言語モデル)を使いました。LLMが挙げた文献や数字は、そのまま載せるのではなく、出典にあたって確認したうえで書いています。

学術研究でのLLMの利用は、いま論点の多いテーマです。誤った情報をもっともらしく示してしまう問題(ハルシネーション)、著者性や責任の所在、研究の「独自性」をどう考えるか。私自身のスタンスは、決め切れていません。というか、あえて決めない、使えるものは使うというスタンスが最も近いです。

もう一歩踏み込んだことを述べると、育児と仕事の合間に在野研究を続けていくには、もはや使わざるを得ない、というのが実感です。大学の図書館や研究室の先輩・同僚にすぐ相談できる環境にいない在野研究者にとって、LLMは、問いを整理し、調べる方向の当たりをつけるための、ほとんど唯一の「壁打ち相手」になっています。

LLMの能力の目安としては、たとえば「Killed by LLM」というサイトがあります。かつてAIの能力を測るために作られ、いまではLLMが高得点を出すようになって「役目を終えた」ベンチマーク(評価用のテスト)を記録したものです。57分野の学術知識を問うテストなども、そこに並んでいます。

「博士レベル」をうたう指標としてよく使われるのが、GPQA(Graduate-Level Google-Proof Q&A)です。生物学・物理学・化学の専門家が作った448問の選択式問題で、その分野で博士号を持つか博士課程にいる専門家の正答率は65%、別分野の優秀な人がウェブを自由に使って30分以上かけても34%にとどまります。公開された2023年11月時点では、GPT-4の正答率は39%でした。その中でもとくに難しい198問を選んだ「GPQA Diamond」は、いまも最先端のモデルを比べる標準的な指標になっています。

ただし、GPQAが測っているのは自然科学の、それも答えが一つに決まる問題です。社会学のように、問いの立て方そのものや、解釈の妥当性が問われる分野の力を測るものではありません。

そのうえで、私の個人的な体感としては、少なくとも今回のような先行研究の整理や論点出しについては、ある程度当該分野に明るい専門家(の卵)と議論しているのに近い知識と返答が得られると感じています。これはあくまで体感であり、間違えることもある相手として、確認しながら付き合っています。

参考資料

書いた人

tapi

名古屋大学大学院 環境学研究科 博士後期課程(社会学講座)。東京大学文学部 社会学専修卒。