記事の要約
- ASDの姉妹と、ASDグレーゾーンの夫と暮らす母・はゆまーまさんの経験を、たぶ先生が読み解いた記事
- 夫婦喧嘩のあと、ChatGPTに整理してもらった自分の気持ちを、文章のまま夫に見せた
- 気持ちを伝えるほど「否定」として届いてしまう繰り返しから、文章という伝え方で抜け出した
- 返ってきた言葉は「よくわからなかったけど、もう一回読もうと思う」。はゆまーまさんはこれを「最大の答え」であり「最大の誠意」と受け取った
- たぶ先生は、この話が自身の参加する勉強会の「ずっと答えの出ないテーマ」と直結していたと書く
1. 話すほど「否定」として届く、から降りる
理解したくて、気持ちを伝える。伝えるほど、相手には否定として届く。この繰り返しは、発達特性のある人とその家族の話としてだけでなく、およそ近い関係の中で、誰にでも起こることとして書かれています。
会話というメディアは、速すぎるのです。声の調子、表情、その場で返事を求める圧力。伝えたい中身が届く前に、そういう付帯情報が先に届いて、相手に防御の姿勢を作らせてしまう。
はゆまーまさんが選んだのは、会話という速いメディアを降りて、文章という遅いメディアに乗り換えることでした。しかも、その文章の整理を、ChatGPTに手伝ってもらっている。感情の熱をいったんAIに預けて、冷ましてから渡す。売り言葉に買い言葉の回路を、物理的に断つ工夫です。
実は、このネットワークの創作インタビュー(YOSHIOKA-02)にも、よく似た使い方をした人がいます。ケムさんは気持ちが沈んだ夜、ChatGPTとの心療内科のような問答ではしっくりこず、架空の物語を一緒に紡ぐ形でなら気持ちを消化できた、と語っていました。直接の相談としてではなく、形式をひとつ挟むと、AIは感情の整理に使える。別々の場所で語られた二つの経験が、同じことを指しています。
2. 「わからない」が言えたことが、誠意になる
まだ、一度読んだだけなんだけど、だから、正直よくわからなかった。よくわからなかったけど、もう一回読もうと思う。
(はゆまーまさんの旦那さんの言葉、note記事より)
曖昧な返答は許されないと思い込んでいた人が、20年連れ添った相手に、初めて「わからない」を言葉にした。それを「最大の誠意」と受け取る側がいた。
ここを読んで、思いました。「わかる」の反対は、「わからない」ではなくて、「わかったつもり」なのです。即答の「わかったよ」は、多くの場合、この話を終わらせたいという合図です。「わからないけど、もう一回読む」は、その逆で、この話を終わらせないという合図になっている。
記事のタイトルにある「1ミリでも共通点が見つかれば、人はわかろうとできる」も、同じ場所を指していると思います。全部をわかることは、たぶん、誰と誰のあいだでも不可能です。必要なのは、全面的な理解ではなく、わかろうとする姿勢が続くための最低条件──1ミリの共通点──のほうなのです。
3. インタビューという営みと、同じ構造
これは、私たちがインタビューでやっていることと、ほとんど同じ構造です。
一度聞いただけではわからない語りを、録音して、文字に起こして、読み返す。無名人インタビューを6年やってきて、文字起こしを読み返すたびに、その場では聞き流していた一言の重さに気づく、ということを何百回も経験してきました。会話を文章に変えることは、相手の言葉に「もう一回読む」機会を作ることなのです。
たぶ先生はこの記事の中で、はゆまーまさんの話が、自身の参加する勉強会の「ずっと答えの出ないテーマ」とまっすぐつながっていた、と書いています。答えが出ないまま考え続けているテーマに、現場のひとつの実例が刺さってくる。在野で研究することの手触りが、この一文によく出ていると思います。
この編集後記のシリーズ自体が、「もう一回読む」ための装置です。だから、この記事は他人事として読めませんでした。続きと詳細は、ぜひたぶ先生のnote本編でお読みください。
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このコラムについて
はゆまーまさんへのインタビュー(2026年07月08日公開/執筆:たぶ先生)を、編集・制作を担当した私(栗林/qbc)が読み返して書いたコラムです。「無名人インタビュー」を6年やってきた人間として、編集の側で読んで何が残ったかを書きました。
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無名人インタビュー主宰 栗林康弘/qbc
