記事の要約

1. 話すほど「否定」として届く、から降りる

理解したくて気持ちを伝える。伝えるほど、相手には否定として届く。この繰り返しの構造は、発達特性のある人とその家族の話としてだけでなく、およそ近い関係の中で誰にでも起こることとして書かれています。会話というメディアは速すぎるのです。声の調子、表情、その場で返答を求める圧力。伝えたい中身が届く前に、それらの付帯情報が先に届いて、防御の姿勢を作らせてしまう。

はゆまーまさんが選んだのは、会話という速いメディアを降りて、文章という遅いメディアに乗り換えることでした。しかも、その文章の整理をChatGPTに手伝ってもらっている。感情の熱をいったんAIに預けて、冷ましてから渡す。売り言葉に買い言葉の回路を、物理的に断つ工夫です。2020年代の夫婦のコミュニケーションの、具体的な発明のひとつだと思います。

実は、このネットワークの創作インタビュー(YOSHIOKA-02)にも、よく似た使い方をした人がいます。ケムさんは気持ちが沈んだ夜、ChatGPTとの心療内科的な問答ではしっくりこず、架空の物語を一緒に紡ぐ形でなら気持ちを消化できた、と語っていました。直接の相談としてではなく、形式をひとつ挟むと、AIは感情の整理に使える。別々の場所で語られた二つの経験が、同じことを指しています。

2. 「わからない」が言えたことが、誠意になる

まだ、一度読んだだけなんだけど、だから、正直よくわからなかった。よくわからなかったけど、もう一回読もうと思う。
(はゆまーまさんの旦那さんの言葉、note記事より)

曖昧な返答は許されないと思い込んでいた人が、20年連れ添った相手に、初めて「わからない」を言葉にした。それを「最大の誠意」と受け取る側がいた。私はここを読んで、「わかる」の反対は「わからない」ではなく「わかったつもり」なのだと思いました。即答の「わかったよ」は、多くの場合、この話を終わらせたいという意思表示です。「わからないけど、もう一回読む」は、その逆で、この話を終わらせないという意思表示になっている。理解の手前で立ち止まり続ける意思こそが、関係の中では答えとして機能するのです。

記事のタイトルにある「1ミリでも共通点が見つかれば、人はわかろうとできる」という言葉も、同じ場所を指していると思います。全部をわかることは、たぶん誰と誰のあいだでも不可能です。必要なのは全面的な理解ではなく、わかろうとする姿勢が維持される最低条件──1ミリの共通点──のほうだ、という発想の転換です。

3. インタビューという営みと、同じ構造

これは、私たちがインタビューという営みでやっていることと、ほとんど同じ構造です。一度聞いただけではわからない語りを、録音し、文字に起こし、読み返す。無名人インタビューを6年やってきて、文字起こしを読み返すたびに、その場では聞き流していた一言の重さに気づく、ということを何百回も経験してきました。会話を文章に変換することは、相手の言葉に「もう一回読む」機会を作ることなのです。

たぶ先生はこの記事の中で、はゆまーまさんの話が、自身の参加する勉強会の「ずっと答えの出ないテーマ」とまっすぐつながっていた、と書いています。答えが出ないまま考え続けているテーマに、現場の一つの実例が刺さってくる。在野で研究するということの手触りが、この一文によく出ていると思います。この編集後記のシリーズ自体が「もう一回読む」ための装置なので、この記事は他人事として読めませんでした。続きと詳細は、ぜひたぶ先生のnote本編でお読みください。

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note · たぶ先生 「1ミリでも共通点が見つかれば、人はわかろうとできる」

このコラムについて

はゆまーまさんへのインタビュー(2026年07月08日公開/執筆:たぶ先生)を、編集・制作を担当した私(栗林/qbc)が読み返して書いたコラムです。「無名人インタビュー」を6年やってきた人間として、編集の側で読んで何が残ったかを書きました。

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【編集・制作:qbc / 無名人インタビュー】

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