はじめに

社会の問題を研究するとき、研究者には、強い思い入れがあります。 貧困をなくしたい、虐待を防ぎたい、地域を再生させたい──。 情熱がなければ、研究は始まらないし、続きません。

ですが、その思い入れが、事実を捻じ曲げてしまったら? データを都合よく切り出してしまったら?

この、研究者にとって永遠の課題を、20世紀初頭にひとつのことばで定式化したのが、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(Max Weber)でした。 今回取り上げる価値自由(Wertfreiheit/value freedom)です。

1. 価値自由とは何か

価値自由は、ひとことでいえば、

社会科学において認識の客観性を保つために、価値判断と事実判断を明確に区別し、事実判断の領域においては価値判断を排除しようとする認識の方法。

を指します(吉岡のノートより)。

ウェーバーは1904年の「客観性論文」で、この概念を提示しました。 彼が言いたかったのは、ひとことで言えば──

「心は熱く、頭はクールに」

ということです。 情熱を否定するのではなく、情熱と事実認識を分けて扱うこと。これが価値自由です。

2. 「価値からの自由」ではなく「価値判断と事実判断の区別」

「価値自由」と聞くと、「価値から自由になる」「価値を持たない研究者になる」と誤解されがちです。 ですが、ウェーバーの主張はそうではありません。

ウェーバーは、何を研究するかは価値理念によって決まる、と考えていました。 「問題そのもの」はないのです。 何が問題なのかは、研究者の価値理念によって定まる。 だから、研究者には価値判断が必須なのです。

ただし、

──このふたつを混ぜ込んではいけない。 これがウェーバーの言いたいことでした。

理想がどれだけ高貴でも、都合のいいデータの取捨選択を正当化することはできません。 「自殺をなくしたい」と思っていても、より危機的に見せるためにデータを水増しすることはできない。 価値自由とは、こうした禁欲的な分離の作法のことです。

3. 社会問題は、どこにあるか

ウェーバーの議論には、もうひとつ大事な含意があります。 それは、社会問題は「そこにあるもの」ではなく、認識されるものだということです。

ある現象が社会問題として認識・共有されるためには、いくつかの条件が要ります。

ひとつ目は、共有可能性。 私たちみんなに共通して関わってくる問題でなければ、社会問題にはなりません。

ふたつ目は、関心や違和感。 解決したいという動機がない問題は、問題として浮かび上がりません。

みっつ目は、解決可能性の確信。 どこかに解決の道があるはずだ、という確信がなければ、それは「問題」ではなく「運命」として受け取られます。

これらの条件が揃って、初めて社会問題は社会問題として現れる。 だから、社会問題は研究者の価値理念と切り離せない。

ここまでは、研究者の主観をきちんと認める議論です。 ですが、それを「だから事実認識も主観でいい」にしないこと──これが価値自由の核心です。

4. 自然科学との違い、社会科学の宿命

ウェーバーが価値自由を強調した背景には、社会科学が自然科学とは違うという認識があります。

自然科学は、研究対象(物質、生物、自然現象)と研究者の主観を、比較的きれいに分けることができます。 ですが、社会科学の研究対象は、研究者自身が属している社会です。 研究者は、社会の外側に立つことができない。

この宿命を踏まえたうえで、それでも認識の客観性を確保するためにどうするか──。 ウェーバーの答えが、価値判断と事実判断の厳密な区別、すなわち価値自由でした。

5. インタビュー研究と、価値自由

Tapi在野研究ネットワーク のインタビュー研究は、ウェーバーが想定した量的調査ではなく、質的調査です。 ですが、価値自由の精神は、質的研究でこそ大事になります。

質的研究では、研究者と語り手の距離が近い。 共感、感情移入、関心の高さがあるからこそ、深い語りが引き出せる。 ですが、その「思い入れ」が、

ことにつながってしまうと、研究の妥当性は崩れます。

だから、Tapi在野研究ネットワーク では、

といった作法を大切にしています。 これらはすべて、価値自由のひとつの実践です。

結び

「心は熱く、頭はクールに」──。 ウェーバーの言葉は、もう100年以上前のものですが、いまの社会研究にもそのまま生きています。

何を問題と見るかには、価値理念が必要です。 ですが、その問題が事実としてどうなっているかを語るときには、価値理念をいったん横に置く禁欲が必要です。

この緊張感のなかで、社会の理解を一歩ずつ前に進めていく。 Tapi在野研究ネットワーク もまた、その伝統のうえに立っています。

参考資料

【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】

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