はじめに
なぜパソコンのキーボードはQWERTY配列なのか。 なぜ日本の通勤電車は朝7〜9時にあれだけ混むのか。 なぜ会社のあの稟議書式は、誰も読まないのに残り続けているのか。
「もっと合理的にできるはずなのに、なぜか今の形が続いている」──こうした現象を説明するための言葉が、今回取り上げる経路依存性(path dependence)です。
1. 経路依存性とは何か
経路依存性は、ひとことでいえば、
制度や仕組みが過去の経緯や歴史に縛られる現象。
を指します(吉岡のノートより)。
もともとは経済学の用語で、市場に新しい技術が導入されたとき、必ずしも性能の優れたものが広く受け入れられるわけではないことを説明するために使われました。 その後、政治学、社会学、組織論など、さまざまな分野に広がっていきます。
2. QWERTYキーボードという有名な例
経路依存性の代表例としてよく挙げられるのが、私たちの手元にあるQWERTY配列のキーボードです。
なぜ「Q・W・E・R・T・Y」という、一見ランダムな並びがいまも使われているのでしょうか。
諸説ありますが、よく言われるのは、
- タイプライターが壊れないように、タイプ速度を抑える目的で考案された
- モールス信号の受信者がタイプする際の効率を考えて作られた
といった、19世紀末の技術的事情です。 1882年に現在の配列が確立してから、もう140年以上が経ちます。
その後、1932年にはよりタイプをしやすく、合理的とされるDvorak配列が考案されましたが、QWERTYのシェアを覆すことはできませんでした。 すでに大量のタイプライター、教育、習慣がQWERTYの上に積み上がっていたからです。
「合理的なほうが勝つ」という素朴な見方では説明できない、こうした粘り強さを、経路依存性という言葉が指し示します。
3. 産業立地論にも、経路依存性
2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは、産業立地論のなかで、もうひとつの興味深い経路依存性を指摘しました。
多くの産業は、その土地に生産上の有利な地理条件があったから発達したわけではない。 ちょっとした偶然でその場所に最初の工場が立ち、そこから次の関連産業が集まり、人材が集まり、ノウハウが蓄積し、大きな産業集積になっていく。
地理条件や資源が同じでも、最初のささやかな出発点が違えば、いまの産業地図はまったく違っていたかもしれない、という見方です。
シリコンバレー、東京、シェフィールド──。 これらの「なぜここなのか」を考えるとき、経路依存性は強力なレンズになります。
4. 制度や組織の「変えにくさ」
経路依存性は、ポジティブな面とネガティブな面の両方を持ちます。
ポジティブな捉え方:過去の経験や蓄積が、未来の判断に役立つ。試行錯誤の歴史が、組織や制度に安定をもたらす。
ネガティブな捉え方:個人も組織も、過去の意思決定の制約を受ける。慣れ親しんだものを変えるのはストレスで、変わったほうがいいとわかっていても変えられない。
ただ、社会学的には、ネガティブな含意で使われることが多い概念です。 「うちの会社はこうやってきたから」「業界の慣行だから」「むかしからそうだから」──こうした言い回しの背後にある、構造的な縛りを名指すための言葉として、経路依存性は使われます。
5. インタビュー研究と、経路依存性
Tapi在野研究ネットワークがインタビューを通して聴く語りのなかでも、経路依存性は、しばしば顔を出します。
- 「うちの業界は、昔からこういうやり方なんです」
- 「変えたほうがいいのはわかってるけど、もう仕組みが固まっていて」
- 「私の人生も、20代の選択にずっと縛られている気がする」
- 「家族のルールは、誰が決めたわけでもないのに、ずっと続いている」
これらの語りは、いまの状態が「合理性」や「自由意志」だけでは説明できないことを示しています。 過去の偶然、過去の選択、過去の制約が、いまの形を強くかたちづくっている。
経路依存性という補助線を持っていると、こうした語りを「本人の意志の弱さ」のせいにせず、歴史と構造の問題として読みほぐすことができます。
結び
「合理的に考えれば、別のやり方があるはず」──。 こう感じる場面に出会ったとき、経路依存性のレンズで一度見直してみると、その仕組みがなぜ続いているかの理由が見えてくることがあります。
過去は、私たちが思っている以上に、いまを縛っている。 そのことを意識した上で、それでもどこを変えられるかを考える。 これが、社会を変えようとする人にとっての、地に足のついた出発点だと思います。
参考資料
- ポール・クルーグマン(産業立地論と経路依存性)
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「経路依存性」
- Path Dependence の概念史
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】