はじめに
満員電車のなか、目の前に立っている見知らぬ人と、私たちは目を合わせるでしょうか。 じろじろ見もしないし、完全に無視もしない。さっと視線を流して、相手の存在は認めながらも、特別な好奇心がないことを伝える。
このごく日常的な振る舞いを、社会学のことばで丁寧に記述したのが、アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマン(Erving Goffman)でした。 今回取り上げる儀礼的無関心(civil inattention)です。
1. 儀礼的無関心とは何か
儀礼的無関心は、ひとことでいえば、
同じ社会的状況にただ居合わせているだけの人々のあいだで行われる、礼儀正しい振る舞い方の1つ。相手を凝視したり完全に無視するのではなく、失礼にならない程度の視線を向け、ただしすぐに視線をそらし、相手に対して特別の好奇心や意図がないことを示す振る舞い。
を指します(吉岡のノートより)。
ゴフマンは1967年の著作『儀礼としての相互行為』のなかで、この概念を整理しました。 場面を限定するなら、たとえば1950〜60年代のアメリカのミドルクラス社会の礼儀作法に則った振る舞いです。 電車内、エレベーター、エスカレーター、レストラン、街路──近代都市の見知らぬ人どうしのあいだで、毎日のように行われています。
2. 「焦点の定まった相互作用」を持たない者どうし
ゴフマンの用語を借りれば、儀礼的無関心が成立するのは、
「焦点の定まった相互作用」を持たない者どうしが、ただある場所に居合わせる場合
です。
つまり、会話をしているわけでも、何か共通の作業をしているわけでもない。 ただ電車にたまたま乗り合わせた、エレベーターに居合わせた、というような場面です。
このとき、人は相手をふたつの極端な方向で扱うことができます。
- 凝視:じっと見つめる。「憎しみの凝視」とも呼ばれる
- 完全な無視:相手がそこにいないかのように扱う。石ころのように扱う
ゴフマンは、この両極端はいずれも無礼であり、見られる側にとっては大変な苦しみだ、と指摘します。 両極を避けて、その中間のさじ加減で振る舞うのが、儀礼的無関心です。
3. 文化と時代によって異なる
儀礼的無関心は、すべての社会で同じように成立しているわけではありません。 社会階級・民族・年齢・文化・時代によって、適切な振る舞いの仕方は変わります。
ゴフマンが記述したのは、20世紀半ばのアメリカのミドルクラスの礼儀作法でした。 日本の電車内のマナーは、それとは少し違う形で、けれど同じような機能を果たすやり方で、私たちの日常を支えています。
「相手をちらっと見る、ただしすぐに視線をそらす、特別の意図がないことを示す」──この繊細な振る舞いを、私たちは誰にも教えられないままに、いつのまにか身につけている。 これもまた、自明視されている社会の方法(エスノメソドロジー的に言えば)の一例です。
4. SNS・公共空間における儀礼的無関心
吉岡のノートには、こんな興味深い指摘もあります。
現代では、特にSNSや掲示板でも、儀礼的無関心のような振る舞いが行われる場合がある。
SNS で誰かの投稿を見るが、いいねもコメントもしない。 掲示板である人の書き込みを目には入れるが、応答はしない。 ただ「読まれていない」のではなく、「読まれて、見ぬふりで通り過ぎられている」──。
ゴフマンが対面の場面で記述した振る舞いと似た構造が、デジタル空間にも生まれている、という見方です。 この読み替えは、現代社会学のなかでも継続的に検討されているテーマです。
5. インタビュー研究と、儀礼的無関心
Tapi在野研究ネットワークのインタビューで、儀礼的無関心が話題になることは多くありません。 ですが、概念としては、ふだんの人間関係の繊細な距離の取り方を観察するときに役立ちます。
たとえば、職場での「あの人とは挨拶だけする関係」、地域のなかでの「目礼だけで通り過ぎる関係」、SNSでの「フォローはしているけれど反応はしない関係」──これらはすべて、儀礼的無関心の親戚にあたる振る舞いです。
ひとりの語りのなかで、語り手が誰とどんな距離を取っているかを丁寧に追うと、その人が生きている社会の網の目が見えてきます。
結び
儀礼的無関心は、目立たないけれど、近代都市の暮らしを成立させている繊細な約束ごとです。
「見ているけれど、見ていない」「いることは認めているけれど、踏み込まない」──。 このさじ加減を、私たちは毎日のように使い分けています。
ゴフマンの仕事は、こうした見えにくい振る舞いに、社会学の光を当てた点に、大きな意義があります。
参考資料
- アーヴィング・ゴフマン『儀礼としての相互行為』(1967)
- 吉岡詩織の社会学用語ノート「儀式的無関心 = 儀礼的無関心」
- Wikipedia「儀礼的無関心」
【執筆:吉岡詩織 / 編集:qbc(栗林康弘)】